1983年、アスキーとマイクロソフトにより制定された8ビットパソコンの共通規格。
西和彦がビル・ゲイツに働きかけ、日本国内の家電メーカー各社を巻き込んで実現した。
基本は『マイクロソフトBASIC』をベースとし、1983年当時の一般的なチップを中心としてハードを構成した。当時としてはまだ珍しく、画像処理をVDPに任せているのが特徴で、8色デジタル表示が普通だった中でアナログ16色表示ができ、スプライトも使用できるのが売りとなるはずだった。
西和彦がビル・ゲイツに働きかけ、日本国内の家電メーカー各社を巻き込んで実現した。
基本は『マイクロソフトBASIC』をベースとし、1983年当時の一般的なチップを中心としてハードを構成した。当時としてはまだ珍しく、画像処理をVDPに任せているのが特徴で、8色デジタル表示が普通だった中でアナログ16色表示ができ、スプライトも使用できるのが売りとなるはずだった。
『MSX』の名称の由来に公式に定められたものはないが、西和彦の発言では当初「Micro Soft eX」の略とされた。後のマイクロソフトの『X』好きからもこれが一番収まりが良い。
Xには「eXchangeable」「eXpandable」「eXtended」などの意味を含み、また未知数のXでもある。
しかし規格発表前の当初はマイクロソフトは規格に参加しておらず、各社に話を持って行った際には「MSXのMは松下のMです」「MSXのSはソニーのSです」などと売り込んでいたという西自身の発言もあり、「松下とソニーのMSX」(場合によっては三洋も含む)と、雑誌などでよく言われていた。
名称がMSXに固まる前は『MNX』(規格の後ろ盾となっていた松下の前田一泰と西和彦のイニシャルから)、『NSX』(西和彦の名から)、『ASX』(アスキーから)などの名称が候補に上がっていた。
Xには「eXchangeable」「eXpandable」「eXtended」などの意味を含み、また未知数のXでもある。
しかし規格発表前の当初はマイクロソフトは規格に参加しておらず、各社に話を持って行った際には「MSXのMは松下のMです」「MSXのSはソニーのSです」などと売り込んでいたという西自身の発言もあり、「松下とソニーのMSX」(場合によっては三洋も含む)と、雑誌などでよく言われていた。
名称がMSXに固まる前は『MNX』(規格の後ろ盾となっていた松下の前田一泰と西和彦のイニシャルから)、『NSX』(西和彦の名から)、『ASX』(アスキーから)などの名称が候補に上がっていた。
スペクトラビデオ社の『SV-318』と『SV-328』参考にし、CPUにはZ80A、VDPにTMS9918、サウンドチップにAY-3-8910、PPIにi8255、カートリッジスロットとATARI仕様ジョイスティックポートを設けるという構成になった。
しかし画像表示能力が上回る『ファミリーコンピュータ』が先に発売されたことでMSXのインパクトは薄れてしまい、本体発売後も度々比較されることとなった。
『I/O』などMSXに批判的な雑誌もあり、当時のパソコン御三家であったNEC、シャープが参加せず、富士通も1機種を発売したのみで撤退したことなどから「負け犬連合」と揶揄されることもあった。
『I/O』などMSXに批判的な雑誌もあり、当時のパソコン御三家であったNEC、シャープが参加せず、富士通も1機種を発売したのみで撤退したことなどから「負け犬連合」と揶揄されることもあった。
初代MSX1では既存のチップのみでハードを構成していたが、グラフィック能力の大幅な強化を行うためアスキーとマイクロソフト主導でヤマハにより新規画像チップの開発が行われた。
元々は官主導で開発されていた『キャプテンシステム』にMSXを対応させるために開発が始まっていたのだが、これを次期規格に取り込むことにした。
そうして『TMS9918』の上位互換チップ『V9938』が誕生した。
西もゲイツもゲームには興味がなく、スプライト機能の強化は半ば捨て置かれた。また、ヤマハはTMS9918開発元のテキサス・インスツルメンツ社の協力を得ずに独自開発したため、TMS9918とは細かい仕様が色々と異なる。特に色の違いは全く認識していなかった。
元々は官主導で開発されていた『キャプテンシステム』にMSXを対応させるために開発が始まっていたのだが、これを次期規格に取り込むことにした。
そうして『TMS9918』の上位互換チップ『V9938』が誕生した。
西もゲイツもゲームには興味がなく、スプライト機能の強化は半ば捨て置かれた。また、ヤマハはTMS9918開発元のテキサス・インスツルメンツ社の協力を得ずに独自開発したため、TMS9918とは細かい仕様が色々と異なる。特に色の違いは全く認識していなかった。
1986年、西和彦と元々ソフトウェア開発に専念したかったビル・ゲイツが仲違いとなり、アスキーとマイクロソフトの提携が終了。以降MSX事業はアスキーが舵を取ることとなった。
マイクロソフトは『MS-DOS』に限界を感じており、GUIを搭載する『Microsoft Windows』の開発へと進んでいった。
マイクロソフトは『MS-DOS』に限界を感じており、GUIを搭載する『Microsoft Windows』の開発へと進んでいった。
1988年、MSX2の登場から3年が経過し、他社のパソコンの性能は大幅に向上していた。主流は16ビット機に移行し始めており『X68000』という高性能なホビー機も発売され、MSXも機能強化を図ったMSX3の登場を望む声が強くなりつつあった。
そんな中、ようやくMSX2+規格は発表されたのだが、ディスクドライブやFM音源の搭載が盛り込まれたもののまだオプション扱いであり、またもメインはグラフィック機能のそれも期待未満の小強化に留まる内容であったため、失望の声があふれる結果となってしまった。
結局本体は3社からしか発売されず、対応ソフトも少なかったためあまり普及しなかった。
そんな中、ようやくMSX2+規格は発表されたのだが、ディスクドライブやFM音源の搭載が盛り込まれたもののまだオプション扱いであり、またもメインはグラフィック機能のそれも期待未満の小強化に留まる内容であったため、失望の声があふれる結果となってしまった。
結局本体は3社からしか発売されず、対応ソフトも少なかったためあまり普及しなかった。
アスキーもハード強化の必要性は感じており、1990年にZ80上位互換の高速チップ『R800』の開発に成功する。上位互換のため、内部は16ビット化したものの外部データバスは8ビットを引き継いだ特殊なチップとなった。
一方、低速さが問題となっていたVDPの強化を行うため新チップ『V9978』も開発していたが、高速化には成功したもののこのままでは上位互換を保つのが難しいと判明し、仕切り直して上位互換を想定しない『V9990』が開発されることになった。
そのため次期規格には新画像チップ完成が間に合わず、またも『MSX3』の名を冠しない『MSX turbo R』として発表された。
一方、低速さが問題となっていたVDPの強化を行うため新チップ『V9978』も開発していたが、高速化には成功したもののこのままでは上位互換を保つのが難しいと判明し、仕切り直して上位互換を想定しない『V9990』が開発されることになった。
そのため次期規格には新画像チップ完成が間に合わず、またも『MSX3』の名を冠しない『MSX turbo R』として発表された。
- 名称は当時西氏が乗っていた『ベントレー・ターボR』からとのこと
市販ソフトが発売されなくなった95年にはMSX・FANも力尽き、以降はパソコン通信と同人ソフトが主流となった。各地では定期的に小規模なユーザー集会が行われた(『◯◯MSXユーザーの集い』など。◯◯には開催地が入る)。
マイコンBASICマガジン?は投稿プログラムの掲載を続けたが、投稿・採用されるのは小粒な物ばかりとなっていた。(マイコンBASICマガジンはプログラムリストの見やすさが重視されるという事情もあった)
『Windows95』の登場により、パソコン通信からインターネットにユーザー活動の場が移行し始めた。
97年にはソフトベンダーTAKERU?もサービス終了となり、同人ソフトの入手方法は通販・即売会・一部のショップのみとなった。
マイコンBASICマガジン?は投稿プログラムの掲載を続けたが、投稿・採用されるのは小粒な物ばかりとなっていた。(マイコンBASICマガジンはプログラムリストの見やすさが重視されるという事情もあった)
『Windows95』の登場により、パソコン通信からインターネットにユーザー活動の場が移行し始めた。
97年にはソフトベンダーTAKERU?もサービス終了となり、同人ソフトの入手方法は通販・即売会・一部のショップのみとなった。


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